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執筆者の写真Frederick Lauer

子どもを信じ、子どものために妥協しない

子どもたちがよく周りから受け取る言葉には、受け入れられるものもある一方で、受け入れ難いものもあります。 この二項対立が内面化されると、自己意識の分裂が避けられなくなるのです。たとえば「良い子は怒鳴らない」という言葉は、「怒った子は愛されない」という、意図はしないものの、最も効果的な脅しを含んでいます。「良い子」(怒りを押し殺す)であることや親に受け入れられるように努力することが、子どもの生きる術になるかもしれません。あるいは「うまくいっているときだけ私は愛される」という考えを内在化させ、完璧主義や厳格な役割分担の人生を歩むように仕向けるのです。また、"失敗しても大丈夫"ということを知る必要のある、弱い自分からも切り離されます。さらには、ただ見苦しく平凡であっても必要な愛を得ることができなくなる可能性があります。

普通という神話

-ガボールとダニエル・メイト




すべての大人はかつて子供だった...しかし、それを覚えている人はごくわずかである。

星の王子さま

アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ




最近、日本の教育改革が叫ばれています。もちろんこれは私が、社会的・文化的システムが子どもたちに与える影響の大きさと、子どもたちの自由について深く考えているからそう感じるだけなのかもしれません。つい最近、山形新聞は3部構成の社説で、『日本が公立学校における英才教育のアプローチを変える』という特集を組みました。このシリーズでは、文部科学省が検討している『多様な学習者や学習者のニーズ、そして個人によりよく対応する為学校を改革しよう』ということについて詳しく述べています。このようなことが今までなかったというのは、文部科学省がどれだけ学習効果を高めるための教育的手段やアプローチに重点を置いてきたか、そして今までいかに子どもたちを"一人の人"として配慮してこなかったかを物語っているでしょう。



カリキュラム、教育法、テクノロジーの大幅な進歩にもかかわらず、生徒の学びにつながる指導はますます少なくなっています。その原因は、生徒と教師の関係が失われていることです。簡単に言えば、教師が生徒の心に触れるためには、生徒の心を持つことが必要なのです。

ブリュッセル講演

子供と青少年の幸福への鍵

-ゴードン・ニューフェルド博士



日本では官僚主義的な発想から、より適切な学校環境の整備に取り組んでいますが、他国ではさまざまな教育方法によってこの課題に取り組んでいます。教育環境には様々なものがあると思いますが、私は常に"強制と自由"の間に強い線を引いています。支配と解放。どちらの極端さも誰かの理想を表していますが、私にとっては現代指示されている神経科学や心理学、個人のパワフルな体験談がより健全な選択です。簡単に言えば、子どもたちに自分の道を選ぶ自由を与え、大人の世界の価値観から解放することが、子どもたちが成熟への道を歩むための最も人道的な方法なのです。そしてその過程で、トラウマになることや失われた時間を悔やんだりすることを避けることができます。


"自由と解放"に焦点を当てることは必然的に革新的なアプローチと言えますが、そのため、この理想という高貴な聖火を手にする人は、良くも悪くも目立ちがちです。しかし、自由と解放のために立ち上がることは、単にたくましく生きるだけでなく、私たちの健康にとっても必要なことなのです。


現代に多く見られるような"自分を維持するために、システムに従属してきた人"はしばしば自分に対して不正直に生きていますが、そういった場合の多くは、将来嘘偽りの生き方による圧力で身体と心が悲鳴を上げ、健康問題につながるのです。


例えば、自分の興味の対象が芸術であることを根底から理解し、義務教育のあらゆる岐路で制度に抗い、社会の衝動や文化規範にも抵抗し、勇気と信頼性をもって自分の情熱だけに集中する子供は、後年、成熟と呼べるほどの明晰な頭脳を持つようになります。このような人たちは、社会的・文化的な成功の尺度で測られようとも、自分のすることに確信を持ち、自分の人生に意味をもたらすものが毎日行っていることだという自覚を持ち、健全に、本当の自分自身を生きているからこそ、私たちの目にとまるのです。


その一方で、自分が選んだわけでもないのに反対する意志を失い、反抗する機会がある度かえって体制に服従、改ざんされ、虐待された子どもは、大人になってから高給でリスクの高い職業についた場合成功したと判断されるかもしれません。ですがこのような人は、不安感にさいなまれ、自分が選んだ道が間違っていたのかどうかもわからず、子ども時代に諦めたすべてのことに憤慨し、著しい未熟さを示すかもしれません。彼らの癒しへの唯一の道は、自分に対する攻撃に向き合い、他人の意思の為人生の大部分を失ったということを受け入れることです。


どんなに裕福でも、孤独と目的の欠如に悩まされる人もいます。


それで、私は大きな好奇心をもって、映画「夢見る小学校」を見に行ったのです。この映画は日本の教育制度の核心的な問題を扱っており、この国にとって紛れもなく重要な映画です。取り上げられている学校は様々な学習スタイルを運用しています。子どもを個人としてとらえることはもちろん、ほとんどの判断システムを排除したうえで子どもたちに比較的多くの自由を与えています。


そういった学校での日常生活では、日本の平均的な学校とは大きく異なる点がいくつか見られました。


ひとつは、学校のスタッフを「先生」と呼ばせるのをやめ、大人と子どもが同じ目線に立った平等な教育を行っていることです。教室では子どもたちに各々の楽な姿勢をとらせ、活動の最中でも休憩を取ることが許されています。子どもたちにリスクを負わせ、それぞれが自由にプロジェクトを立ち上げられる環境でした。カリキュラムの目標を達成するかどうかは、子どもたちの責任です。


そして学校のスタッフである大人たちが、子どもたちを一人一人大切に思っていることが伝わりました。これは、日本中の多くの学校に欠けているものです。


この映画に出てくる学校は、子供には理解しがたい、大人から厳しい目で見られるような形骸化した大人の世界を、ほとんど排除しているのです。子どもたちに学習方法のコントロールを与え、現状に挑戦する紛れもない素晴らしい活動をしているのです。また、これらの学校は日本の文部科学省に登録され、認可されています。しかし、自由という蜃気楼は、子供たちにとって厳しい現実を突きつけます。


私はこの映画を見ながら、学校の創設者や様々な専門家が語る理想を自分の経験と照らし合わせてみましたが、彼らが主張する哲学からは大きく逸脱していることがわかりました。しかし、何よりも問題だったのは、A.S.ニールによって1920年代に設立されたサマーヒルの価値観を反映した学校を作ったとする、この映画とその制作者の発言です。カリキュラムをざっと見ただけでも、より大きな真実が隠されています。http://www.kinokuni.ac.jp/nc/html/htdocs/?page_id=71 これらの学校の子どもたちは確かに学び方の自由度は高いが、何を学ぶかについての自由はほとんどないのです。


学校のカリキュラムがどのようなものであっても、子どもたちは国のカリキュラムに従わなければならないのです。運動会や発表会など、学校の集まりに参加するかどうかは子どもたちの自由ですが、それでも、その活動は行われなければならないのです。形成的評価によって、子どもたちは大人の判断に従わなければならないことには変わりありません。さらに公立学校と言いながらもその大半は私立学校であり、高額な学費のため通うことを断念した人も多いでしょう。貧富の差や教育機会の不均等を助長しているのではないでしょうか?


この映画は、私の不安を解消してくれるどころか、さらに不安を募らせるものでした。

というのも、教室、カリキュラム、将来への関心(キャリア)など、学校のよく知られた側面は、親にとって魅力的である可能性が高いからです。しかし、もうひとつ大きな懸念が私にはありました。映画で描かれた学校には、A.S.ニールが心から支持する「自由な遊びのための時間」が欠けていたのです。



「学校は脳を作るところだと思われていた。今私たちは、学校が使える脳を作るのは遊びであることを知っています。」


-ゴードン・ニューフェルド



A.S.ニールのサマーヒルの記録では、授業に出る前に何年も遊んでいる子供たちがいました。また、授業に出席してもどの授業を受けるか、その授業を続けるかどうかは、子どもたちが自由に選択することができたのです。これらの学校は、楽しいことや笑顔と遊びがイコールであるという誤謬を繰り返しているように思われます。しかし、目標に向けた学習活動はその定義からしてただの遊びではありません。残念ながら、遊びの重要性について圧倒的な証拠があるにも関わらず、幼児教育の研究者や専門家の間では国の指示や強制的なカリキュラムのガイドラインが取って代わられています。



「遊びは、私たちの社会で絶滅の危機に瀕しています。遊びは、スクリーンやノンストップの刺激によって奪われつつあります。また、子供たちが先に進むために社会として急ぐあまり、遊びは侵食されつつあります。」


-ゴードン・ニューフェルド



ガボール・マテは著書『普通の神話』の中で、遊びに対するさらなる脅威を探っています。2020年5月にカナダのケベック州でCOVID-19のロックダウンの後に学校が再開したとき、カリキュラムから音楽、演劇、美術、体育といった必須でないのものが省かれていました。机上で学ぶ教科の方が重要だという前提ですが、「何のために重要なのか」という疑問が生じます。「就職準備」を優先させることは、健康的な発達を重視することとはかけ離れているのです。これは、教育制度や子育て全般の主要課題であるべきではないでしょうか?


というのも、認知能力はしっかりとした「感情」の構築に依存しており、遊びはその構築に不可欠なものだからです。


『夢見る小学校』には、楽しそうに問題を解決したり、プロジェクト型学習や探究型学習で知識を身につけたりする子どもたちの姿があふれています。しかし、授業中には白昼夢を見ているような子どもたちの顔や、退屈しているような顔を見ることがありました。


このような子どもたちにとって、座って参加するふりをするよりも、自由に遊ぶことに時間を使ったほうがいいのではないでしょうか?自己決定理論によれば、内発的動機づけがなければ、学習は難しいです。子どもたちに共同作業をさせたところで、何のメリットも感じない子がいるのは当然です。でも、外から見ると、参加せざるを得ない。子供時代の貴重な、気ままな時間を子どもの健康にあまり関係のない時間に割いてしまうのです。


このようなプロジェクトベースのセッションは自主的な学習ではなく、国が定めたカリキュラムを子どもたちが身につけるための手法に過ぎず、他の手法と同様に子どもたちの本質的な興味は無視されているのです。


A.S.ニールの哲学が本当に反映された学校であれば、プロジェクト型授業に無関心な子どもはいないはずで、彼らは自由に出て行く権利があるのですから。子どもたちが大きなグループ会議に参加しているのを見ると、国が決めたカリキュラムにノーと言える力があるのだろうか、もっと自由な教育モデルについて投票できるのだろうか、義務付けられた学校行事や集会を廃止するために投票できるのだろうか、と考えさせられました。しかし、子どもたちはそうではないでしょう。このようにして、これらの学校は自由と自律性の幻想を永続させると同時に、よりソフトではありつつもそれに劣らない絶対的な権力を子どもたちに強いているのです。



偉大な知識人であるノーム・チョムスキーは、「子どもたちは常に"なぜ"と問いかけ、説明を求め、物事を理解しようとする」と述べている。しかし、学校に行けば間もなくして、規則正しい生活を送るようになる。だがやがて、学校へ行けば規則正しい生活となり、他のやり方はダメだと教えられる。社会の制度は、自分自身の努力や運命をコントロールする力を削ぎ、修正し、制限するように構築されているのだ。

ガボール・マテ



また、これら私の批判を文化的に無神経であるとか、日本の社会的圧力を考慮していないなどと誤解はしないでください。私は、日本の教育には大きな社会的・文化的圧力があることを十分理解しています。現代の日本の教育は、親孝行、年長者への敬意、独自性よりも順応性、そして非常に特異な日本の文化規範を反映したものとなっています。私のコミュニティの多くは、この制度が必要であり、時には十分でないこともあると公言しています。体罰がないために、手に負えない若者による社会不安が続いているという、根拠のない悲痛な話もよく耳にします。


日本社会も、高学歴、高収入、物質主義的な市民という理想を子どもたちに教え込むというグローバル資本主義の圧力の犠牲者であることに変わりはないでしょう。


しかし、ガボール・マテによれば"このような恐怖とステータス主導の子育ての意図しない影響は、子どもの学業と経済的成功を確保しようとする親の絶望によって子どものかけがえのない感情の欲求が二の次になってしまうことである"のです。


社会と文化は、子どもの普遍的な欲求を難解にします。その結果、親は自分の立場をわきまえた本物の人間に成長する機会を与えられないまま子ども時代を過ごし、将来に対する不安や恐怖を抱かせることになります。


ですから、私たちの使命は"社会や文化が私たちの生活のどこにダメージを与えているかを見直すこと"にほかなりません。


そして、私たちの自由を妨げている暴力的な側面を見つけたら、それを克服するために戦うことです。かつてキング牧師が言ったように、自由は偶然に得られるものではないのです。 "自由は決して抑圧者によって自発的に与えられるものではなく、抑圧者によって要求されなければならない"


そして、私たちは何のために戦うのか。


それは、私たち自身、私たちの子どもたち、隣人、そして環境の健康ではないでしょうか。ガボール・マテは、"私たちの文化的生態系は、同調し、存在し、反応し、つながる子育てをサポートしない"と書いていますが、これは非常に鋭く捉えています。これまで見てきたように、この不安定化はまだ胎内にいる乳児に伝わるストレスから始まり、出産の機械化、育児本能の減衰、子どもの発達上の必要性の否定を伴っています。さらに、親に対する経済的・社会的圧力がますます強まり、地域社会の絆が失われ、親が受け取る子育てに関する誤った情報によってその影響は拡大します。そして、競争させるために生徒にストレスを与えることが多い教育システムによって強化され、消費市場の栄光のために子供や若者を搾取することでそのプロセスは頂点に達するのです。


カムイキッズがオルタナティブな学習環境の構築に取り組む中で私は、"子どもの教育にとって唯一の正しい道は解放されたものである"という信念にますます駆られるようになりました。大人の世界の恐怖や不安から解放されたもの。子どもの興味に寄り添い、子どもの尊厳を保つことができるもの。子どもは子どもであるための空間を与えられなければなりません。そして、彼らのニーズに応えなければなりません。ゴードン・ノイフェルドが言うように、子どもには子ども時代の基盤として良好な人間関係が必要であり、休息と真の遊びを可能にする真の感情表現が許されなければなりません。


これは非常に重要であり、システム化されています。私たちは自由という幻想を与えることによって、子どもたちが成熟を見つけるために必要な世界を与えることはできません。社会や文化の要求や欲望によって常に制限されているようでは、子どもたちが変化や変革の担い手となることは期待できません。また、こうした力が存在することを否定することもできません。私たちにできる唯一の方法は、自分の内側にある"恐れ"を見つめることです。自分が恐怖心を持っていることを受け入れましょう。そして、私たちも自分の自由を大切にしていることを受け入れることです。そのように真実の道を歩むためには、すべての人、特に子どもたちの自由と自律性を大切にしなければなりません。


アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリは、『星の王子さま』の中で、「人はみな星を持っているが、同じものはない」と書き、人が歩めない無数の道と、すべての人にある可能性の両方を雄弁に語っています。ある人は旅人として、星は道しるべとなる。ある人にとっては空の小さな光に過ぎない。ある人は学者として、星は問題である。しかし、これらの星はすべて沈黙している。あなただけが、他の誰にもない星を持つことができる。その星のひとつで、私は生きている。その中のひとつで、私は笑っている。そうして、あなたが夜空を眺めるとき、すべての星が笑っているようになるだろう...あなただけが、あなただけが笑うことのできる星を持つことになるのだ そして、あなたの悲しみが慰められるとき(時がすべての悲しみを癒す)、あなたは私を知っていることに満足することだろう...。あなたはいつも私の友人でいてくれるでしょう。あなたは私と一緒に笑いたいと思うでしょう。そして、あなたは時々、窓を開けるでしょう、そう、その喜びのために......。まるで星の代わりに、笑い方を知っているたくさんの小さな鈴をプレゼントしたような気分になるだろう」。


もしかしたら、あなたが幼いころにもらった星は、夜空に輝く他の星ほど輝いてはいなかったかもしれません。その重荷を手放すのに、遅すぎるということはありません。人生に意味をもたらす不滅の光を見つけることは決して簡単ではありませんが、それは常に尊く、必要なことです。自分の選んだ光の中で、自分に正直に、本物の人生を生きることはまさに成熟と自己受容、そして癒しへの唯一の道なのです。


Trust Children, Never Compromise for them


Children often receive the message that certain parts of them are acceptable while others are not—a dichotomy that, if internalized, leads ineluctably to a split in one’s sense of self. The statement “Good children don’t yell,” spoken with annoyance, carries an unintended but most effective threat: “Angry children don’t get loved.” Being “nice” (read: burying one’s anger) and working to be acceptable to the parent may become a child’s way of survival. Or a child may internalize the idea that “I’m lovable only when I’m doing things well,” setting herself up for a life of perfectionism and rigid role identification, cut off from the vulnerable part of herself that needs to know there is room to fail—or even to just be unspectacularly ordinary—and still get the love she needs.


The Myth of the Normal

-Gabor and Daniel Mate



“All grown-ups were once children... but only few of them remember it.”


The Little Prince

Antoine de Saint-Exupéry



Conversations about education in Japan, and the need for reform are somewhat en vogue these days. Of course, this might just be a perception I hold because of the gravity our social and cultural systems hold over children and because I care so deeply about their freedoms. Just recently Yamagata Newspaper published a three-part editorial feature on changing the approach public Japanese schools take for gifted children. The series detailed the Ministry of Education, Science and Technologies recent consideration to reform schools to better serve diverse learners, learner needs, and individuals. The idea that this has never come up before is a testament to how much MEXT has focused on pedagogical tools and approaches to bolster learning, and how little the system has cared for children as human beings up until now.


Despite significant advances in curriculum, pedagogy, and technology, less and less of our teaching is resulting in our students’ learning. What is to blame is the loss of student-teacher relationships. Simply put, teachers need to have the hearts of their students to have access to their minds.


Brussels Address

Keys to Well-Being in Children and Youth

-Gordon Neufeld, Ph.D.


As Japan grapples from a bureaucratic level over how to make a more appropriate school environment, others have taken this challenge up via a variety of different pedagogies. While I feel like education environments exist on a spectrum, I have always drawn a strong line between compulsion and freedom. Domination and liberation. Either extreme represents someone’s ideal. One, to me, is the healthier choice, one which neuroscience, psychology, and powerful personal stories all now support. Put simply, giving children the freedom to choose their paths, and liberating them from the values of the adult world is the most humane way they’ll be able to walk a path toward maturity. It also helps avoid trauma and regrets over lost time in the process.


Focusing on freedom and liberation is necessarily a radical approach, as it’s predicated on there being some extant subjugation of individuals. As a result, anyone who takes up the noble torch of these ideals tends to stand out, for better or for worse. However, standing up for freedom and liberation is not merely necessary for a resilient life, it’s also necessary for our health. People who have been subjugated to a system, to preserve themselves, often live inauthentically. This leads to health problems in the future as their bodies and minds scream out under the pressures of living a falsehood.


As a way of example, a child who at their very core understands that their primary interest in life is art, and who at every crossroads in their compulsory education resists the system, resists societal urges and cultural norms, and focuses solely on their passions with courage and authenticity has a clarity of mind later in life that we might call maturity. These individuals stand out to us because they live their true selves, sure in what they do, healthy in the knowledge that what brings them meaning in life is what they do every day, whether or not it's measured by the societal or cultural metrics of success.


On the other hand, a child who has been tampered down, and abused along a path they never chose but lost the counter will to oppose, who at every chance to rebel was instead further subjugated to the system may well grow into adulthood and be judged successful in a high paying, high-risk career. This same individual may show a marked immaturity, however, wracked with insecurity, unsure whether they’ve chosen the wrong path, and resentful of all they’d given up in their childhood. Their only path to healing is facing up to the assault on their person and accepting that they’ve lost a large portion of their life for the will of others. Some of the most well-off people are haunted by loneliness and lack of purpose.


And so it was with great curiosity that I went to watch the movie “夢見る小学校”. This is an undeniably important film for Japan. It addresses some of the core issues of the Japanese education system. The schools depicted in the film operationalize different learning styles, view children as individuals, do away with most systems of judgment, and provide comparatively more freedom to children. These schools are a stark departure from the average school in Japan.


For one, they’ve done away with the moniker of “Teacher” for the staff at the school, favoring a more equal approach to education that puts adults and children on the same level. They let children adopt a more comfortable posture in their classrooms, and even take breaks throughout the day. They let children engage in risks, building myriad projects. Children are responsible for achieving the goals of the curriculum. There is also an indelible sense that the adults who staff the schools care about the children as individuals. This is something sorely missing from many schools throughout Japan.


The schools in the film, for the most part, they’ve done away with the perfunctory aspects of adult life, ones that are hard for children to understand, and are often harshly judged by adults. They give children more control over how they learn and are doing undeniably great work to challenge the status quo. These schools are also registered with and approved by the Ministry of Education in Japan. And that’s where the mirage of freedom gives way to the hardened truth for these children: they’re still not free to choose how they structure their days.


As I watched the film and measured it against my experience with some of the ideals the school founders and various experts talked about I found some significant departures from the philosophies they claim to embrace. But perhaps, more than anything, I took issue with the statements of the film and its filmmaker claiming they had created a school that reflects the values of Summerhill, founded in the 1920s by A.S. Neill. Even a cursory glance at the curriculum belies a greater truth. http://www.kinokuni.ac.jp/nc/html/htdocs/?page_id=71 While the children in these schools do indeed experience greater freedom in how they learn, they have very few freedoms regarding what they learn.


They are still subjugated to a state curriculum, regardless of the form it takes in the school. While children have the freedom to choose whether they participate in school assemblies like sports days, and recitals, the activities are nonetheless required to take place. Children are still beholden to the judgment of adults through formative assessments. Furthermore, despite citing one public school, the vast majority of these schools are private, with expensive fees that preclude many from attending, thereby in all likelihood exacerbating divides between the rich and poor and perpetuating inequitable education opportunities.


Rather than assuage my fears, this film raised even more concerns for me. Partly because the familiar aspects of the schools: classrooms, curriculums, a focus on the future (careers), are likely to be attractive to parents, who frequently make choices despite their children’s protests because of a pervasive myth throughout most global capitalist societies that children are not aware of what’s best for them. But one other big concern came to the fore for me. The schools depicted in the film had one disturbing lack that A.S. Neill supported wholeheartedly: extensive periods reserved for free play.


“We used to think that schools built brains. Now we know that it is play that builds the brains that school can then use.”


-Gordo


In A.S. Neill’s accounts of Summerhill, some children spent years playing before they ever took on any classwork. And even when they did attend classes, they had the freedom to choose which, and whether they continued the work. While it’s hard to know without personally attending these schools, they seem to repeat the fallacy that fun/smiles equate to play. But goal-directed learning activities by their very definition are not play. Unfortunately, despite overwhelming evidence in research and among professionals in early childhood education of the importance of play, it’s almost always superseded by the directives of the state and mandated curricular guidelines.


“Play is becoming an endangered activity in our society. It is being usurped by screens and non-stop stimulation. It is also being eroded by our hurriedness as society for our children to get ahead.”


-Gordo


In his book, The Myth of Normal, Gabor Mate explored further threats to play stating, “When schools in the Canadian province of Quebec reopened after the COVID-19 lockdown in May 2020, omitted from the curriculum were the supposed nonessentials of music, drama, art, and physical education. The assumption was that academic subjects were more important—raising the question, More important for what? Prioritizing “job readiness” is a far cry from foregrounding healthy development, which ought to be the primary agenda of the educational system, as of child-rearing in general. Even on narrow “skill building” grounds, our prevailing educational ideologies miss the boat, since cognitive skills in fact depend on firm emotional architecture, of which play is an indispensable builder.”


“夢見る小学校” abounds with scenes of happy children, working together to solve problems, and building knowledge through project-based and inquiry-based learning. And yet, during the classes, one can still see the undeniable faces of daydreaming children and faces wrought with tedium and boredom.


For these children, wouldn’t their time be better spent engaged in free-play, rather than sitting down pretending to participate? Self-determination theory makes it clear that without intrinsic motivation it’s hard to learn. When forcing children to work together on projects, it’s only natural that some may find no benefit in the exercise. And yet, from outside appearances it seems they have no choice but to participate. Precious periods of childhood whimsy are given up to periods of time that may have little bearing on the child's wellbeing.


These project-based sessions aren’t independent learning, they’re just another method to help children acquire state-mandated curriculums, and just like all other methods to do so ignore the intrinsic interests of children. Were these schools truly reflective of the philosophies of A.S. Neill, you would see no disinterested children in the project-based classrooms because they’d have the freedom and right to leave. It made me wonder when watching the children participate in the big group meetings, whether they would ever have the power to say no to the state-mandated curriculum, whether they could vote on an even freer model of education, whether they could vote to do away with mandated school events and assemblies. I suspect that the children do not. And, in this way, these schools perpetuate the illusion of freedom and autonomy, while simultaneously enforcing a softer, but no less absolute form of power upon children.


“Children,” the great public intellectual Noam Chomsky has remarked, “are constantly asking why—they want explanations, they want to understand things.” But soon, he says, “you go to school, you’re regimented. You’re taught this is the way you’re supposed to behave, not other ways. The institutions of the society are constructed, so as to reduce, modify, limit the efforts and control of one’s own destiny."


Gabor Mate


One must also not misconstrue any of my criticisms as culturally insensitive, or in some way not taking into account Japanese societal pressures. I fully understand there are immense societal and cultural pressures regarding education in Japan. Contemporary Japanese education reflects the culture from notions of filial piety, respect for elders, conformity over uniqueness, and through highly idiosyncratic cultural norms of Japan. Many in my community have openly expressed how the system is necessary, and sometimes doesn’t even go far enough. I have often heard unsubstantiated woeful tales about how the lack of corporal punishment is leading to ongoing social unrest from unruly youth.


Japanese society is no less a victim of global capitalist pressures to further indoctrinate children into the ideals of highly educated, high-earning, materialistic citizens. But as Gabor Mate points out, “The unintended impact of such fearful, status-driven child-rearing is that the child’s irreducible emotional needs fall secondary to the desperation of parents striving to ensure the academic and financial success of their offspring.”


Society and culture obfuscate the universal needs of children. They litter childhood with fears and anxieties about an unknown future to help ease the mental anguish of parents, who themselves, may have never had the opportunity to mature into authentic individuals who are comfortable with their positions in life. Therefore our mission is nothing less than to reassess where society and culture inflicts damage on our lives. And, when finding the violent aspects that impede our freedoms, fighting to overcome them. Surely freedom won't come by chance as Dr. King once said, “Freedom is never voluntarily given by the oppressor; it must be demanded by the oppressed.”


And what are we fighting for if not the health of ourselves, our children, our neighbors, and our environment? Gabor Mate so acutely captures this when he writes, “Our cultural ecology does not support attuned, present, responsive, connected parenting. As we have seen, the destabilization begins with stress transmitted to infants still in the womb, with the mechanization of birth, the attenuation of the parenting instinct, and the denial of the child’s developmental needs. It continues with the increasingly intolerable economic and social pressures on parents these days and the erosion of community ties, and magnifies with the disinformation parents receive on how to rear their young. Reinforced by educational systems that too often stress students with pressures to compete, the process culminates in the exploitation of children and youth for the glory of the consumer market.”


As Kamui Kids works to build alternative learning environments, I am ever more driven by the belief that the only right path for a child’s education is a liberated one. One that is free from the fears and anxieties of the adult world. One that is attuned to the interests of the child, and one that lets the child maintain their dignity. Children must be given the space to be children. They must have their needs attended to. As Gordon Neufeld says, children need good relationships to form the bedrock of their childhoods, and they must be allowed the genuine expression of emotions that allow them the ability to rest and engage in true play.


This work is critical, and it is systemic. We cannot give children the world they need to find their maturity by providing an illusion of freedom. We cannot expect children to be agents of change and transformation if they’re always limited by the demands and desires of society and culture. Nor can we deny that these forces exist. The only way we can do this is to look inward at our fears. Accept that we have them. Accept that we also value our freedom, and as such to live a path of truth, must value the freedom and autonomy of everyone, especially children.


Antoine de Saint-Exupéry so eloquently captured both the innumerable paths one cannot take, as well as the possibilities that exist for all of us when he wrote in The Little Prince that, “All men have stars, but they are not the same things for different people. For some, who are travelers, the stars are guides. For others they are no more than little lights in the sky. For others, who are scholars, they are problems... But all these stars are silent. You-You alone will have stars as no one else has them... In one of the stars I shall be living. In one of them I shall be laughing. And so it will be as if all the stars will be laughing when you look at the sky at night..You, only you, will have stars that can laugh! And when your sorrow is comforted (time soothes all sorrows) you will be content that you have known me... You will always be my friend. You will want to laugh with me. And you will sometimes open your window, so, for that pleasure... It will be as if, in place of the stars, I had given you a great number of little bells that knew how to laugh”


Perhaps it’s the case that when you were young you were given a star that didn’t shine quite as brightly as another you saw in your night sky. Know that it’s never too late to let go of those burdens, find the path you’ve always dreamed of, and say no to the one that was forced upon you. Finding the undying light that brings meaning to our lives is never easy, but it is always honorable and necessary. Living an authentic life in the light of your choosing is truly the only path to maturity, self-acceptance, and healing.


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